批判やうがった見方をしていると性格が悪い人とか、非理性的な人みたいに見える場合もあるけれど、政府に対して「物分りのよさ」を示すことが必ずしもいいこととは限らないよねという話題です。
台湾ではここ数日「校正回歸」というワードが話題だ。
台湾のコロナ関連のニュースをよく見ている方ならすでにご存知かとは思うがいちおう簡単に説明しておく。
このワードが登場したのは5月22日(土)のこと。この日の新規国内感染者人数とともに、これまで発表漏れしていた感染者として400人の感染が発表された。これが「校正回歸」だ。簡単に言えば「修正追加分」といったところだろうか。
突如として発表されたこの数値訂正に、メディアなどから真っ先に噴出したのが「数字操作ではないか」という疑念だ。それもそのはずだ。もし見せかけの数値をごまかすために、あえて一部を統計に含めていなかったとしたら大問題だ。
中央感染症指揮センターの陳時中指揮官は会見の中で、この「校正回歸」が発生した理由について、「検査数が一気に増加したせいで、報告が中央まで上がってくるのが遅れた」といった旨の説明をしていた。私は正直、これだけでは腑に落ちなかった。「遅れた」なら一気に発表するのは変だし、22日の日にまとめて発表したことの説明にはなっていない。
参考:本土新增321例、2例死亡,通報塞車導致「校正回歸」上週增400例確診(關鍵評論網)
陳指揮官は同日夜に再び取材に応じ、「3日前に数値の異常に気付いた」「それから調査を進めた結果、漏れがあることが分かった」ことなどを説明した。私はこれで一応納得したのだった。
参考:3天前發現通報數有異 陳時中曝「校正回歸」始末(中央社)
目次
「校正回歸」に対しては賛否両論ある。「仕事量が急増したのだったら仕方ない」と理解を示す声もあれば、「校正回歸という言葉は不適切だ」「数字をどうするかは指揮センターの勝手なのか」などといった批判的な声もある。
参考:
投書:「校正回歸」到底有什麼好笑的(上報)
校正回歸等於蓋牌認列?她諷:何不每天加零,7天後一次回歸2000例?(風傳媒)
「篩檢能量不足早講啊」鄉民批校正回歸2敗筆 民怨:用詞太矯情(中國時報)
賛否両論あるのは当然であるし、専門家が「校正回歸は仕方ない」とその理由を説明することはとても意義があるが、私がすごく気になったのは「校正回歸に理解を示す派」の一部の人々が、「校正回歸」を批判したり、訝しんだりしている人あるいはメディアに対して、批判的な(ひいては小馬鹿にするような)見方をしていることだ。
校正回歸沒有不對卻被砲轟?網揭「致命敗筆」:很正常(nownews)
上記記事ではあるネットユーザーのコメントとして「其實這個名詞一出來,基本上理性而且有點sense的人,無論藍綠白,馬上就先猜是篩檢delay造成的(後略)」(筆者訳:このワード(※1)が登場して、基本的には理性的で少しのセンスがあっる人だったら、緑でも青でも白でも(※2)、検査の遅れによりものだとすぐに推測できる)との言葉が引用されていた。
※1=校正回歸
※2=支持政党を指す 藍=国民党、緑=民進党、白=民衆党
このコメントは一例だが、ネット上の言論を読むと、「校正回歸に理解派」は自称「理性派」な人たちが多いように感じる。
私は、一部の「理解派」の人たちが「自分は理性的」という態度を表明するために(当事者たちは意識していないと思うが私からすればこう見える)、政府の発表に対して物わかりの良さを示し、深堀りしないことのほうがむしろ危険だと思う。
話をもとに戻すと、陳指揮官が22日夜に再び説明したのはなぜか?それは「疑念の声が大きかった」からだ。
誰かが批判、非難を向けなければ、詳細な説明がされることはない。もし、非難を向けられたとしても、「やましいことをしていない」という自信が政府にあるのであれば、今回のように説明をすればいいだけだ。逆に、批判をせずにいたとすれば、公表されるべきことが、公表されないまま隠されてしまう可能性だってある。
だからこそ、政府に対してまずは疑念の目を向けることが大事なのだ。もちろん、「酸民」と呼ばれる人の中には非理性的な嘲笑や単なる悪口、ストレス発散を目的にしている人がいることも否定できないが、「政府への批判」は必要だ。
みんなが「そうですか。そうですか。それは大変でしたね。仕方ないですね」と物分りの良さを示したらどうなるか?政府にとっては、隠蔽が楽な社会になるだろう。これは国民にとっては良くないことだ。反対に自称「理性派」の人が、批判派の人たちを小馬鹿にする風潮が強まれば強まるほど、批判的な意見は言いにくくなるのではないだろうか。それに、理解派の人たちが理解をする上で得た情報は、「批判が起きたこと」が起因になってもたらされたという一面も忘れてはならない。文句を言う人がいるからこそ、より多くの情報が得られるのだ。
私は仕事柄、台湾のお役所が出す情報に目を通す機会が多々ある。その中で度々思うのは「言ってること違うやんけ!」ということだ。
数値というのは特にそうなのだが、例えばある統計に関するプレスリリースでは「95%」と書かれていた割合が、実際に統計資料を自分で確認してみたところ「90%」だったーなどということは日常茶飯事だ。
書き写しミスなのか、意図的なのかは不明だが、そういう例を数多く見ているため、私は基本的には、政府が出すデータなどについては基本的に疑ってかかる習慣がついてしまった。
SNSを利用して思うのだが、物事に対して批判的な見方をしている人は性格が悪い人のように見える。逆に、物わかりの良さを示す人は、頭がよく、性格もいい人のように見える。私は批判的な言論をわりと度々表明している自覚があるため、「性格が悪い人だと思われているだろうな」とは思いつつも、それをやめようとはあまり思わない。そもそも「批判=悪」みたいな風潮が嫌いだし、物事を深く考えるには批判的思考は不可欠だと思うからだ。
「自分は頭がいい」「自分の考えは正しい」と思ってしている発言も、別の人から見ればそうではないことが多々ある。だから私は誰かを批判することはあっても小馬鹿にするのは避けたいと思っている(攻撃的に誹謗中傷してくる人は例外)。だれかを小馬鹿にすると、どこかできっと誰かに自分も小馬鹿にされている。
批判は悪いことじゃない。
批判するなら理性的にしよう。
理性的じゃない人を「馬鹿だ」「アホだ」「クズだ」などといって批判している人は、自分こそが理性的な批判をしていないことに気付こう。
アイキャッチ画像はReimund BertramsによるPixabayからの画像です。
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