「台湾ライター」叩きって意味あるの?

 先日、Twitterでこういう投稿をした。

 自分のツイートがあまりにも長くなり、思うがままに書いていたらまとまりがなくなってしまったがために、この記事で整理することにする。

ここで早速お詫び。

上手くまとめたかったのですが、思考力と文章力不足のためにまとまらなかったので、私が伝えたいことを先に書いておきます。


この記事で伝えたいこと

・ライターさんも、「台湾ライター」を叩いている人達も「日本の人に台湾のことをもっと知ってほしい」という思いは同じなはず。
・だから、台湾の情報を発信している台湾在住ライターさんたちを叩くことは、日本人の台湾理解促進の上では建設的じゃないよね。
・明るい面が強調されるのが嫌な人は、自分のたちが伝えたい台湾の一面を負けじと積極的に発信していこうぜ!!

ということです。
以下、本文です。あまりまとまっていませんが、興味があれば読み進めてみてください。

 ここ最近、「最近の台湾ライターは発信内容が明るい面に偏りすぎ。台湾理解には多面的な理解が必要」といった旨の内容の批判を展開している投稿をTwitterで時折見かける。

 私自身もTwitterの台湾界隈(ここ大事。あくまでもTwitterの台湾界隈)で目にする台湾関連の記事(特に商業メディアで発信される記事)は、台湾の明るい面を紹介するものが目立つように感じる。正直、それってどうなのだろう?と私も思う。「多面的な理解が必要」というのも同感だ。

 ※これについては前々から思っていることで、このブログの開設経緯とも関連するため、自己紹介で言及しているので興味があれば見てほしい。

 けれど、「明るい面の紹介が目立つ」からといって、そこから「ライター」という個人(もしくは集合体)に批判の矛先を向けることは、お門違いではないかと考える。

そもそも「台湾ライター」とはなんぞや

 本題に入る前に、まずは「台湾ライター」とはなんぞや?というところから考えていきたい。

 私は正直「台湾ライター」という単語にはあまり耳馴染みはなかった。言われればもちろん分かるが、意識したことはなかった。認識したのは、Twitterで普段から私にいろいろな気付きを与えてくれるぐーちゃんさん(@Tapitea_rec)のこの投稿がきっかけだった。

 実際に「台湾ライター」で検索してみると、自称・他称共に確かにある。そして最初は気付かなかったのだけれど、ライターさんに批判的な投稿は「台湾ライター」という呼称が多く使われていた。

 「アメリカライター」とか「ドイツライター」とかは言わないのに(ちなみにこの2つの単語で検索すると「writer」じゃなくて「lighter」ばかりがヒットする)、なぜ台湾情報を発信している人は「台湾ライター」と呼ばれるのだろう。「台湾ライター」が指すのはどんな人たちか?

 私の考えでは、他称としての「台湾ライター」はジャンルを限定せずに台湾関連のネタを書いている人なのではないかと推測する。ジャンルを限定している場合は「台湾映画ライター」とか「台湾音楽ライター」とかもっと細分化された呼び方をするのが一般的だろう。

 でも、台湾ライター批判をしている人の投稿を見てみると、「台湾ライター」と一言で言っても、台湾在住で特に活躍されているごくごく一部の人を指しているように思える。

偏りが出ているのはライターだけのせいなのか?

 「台湾ライター」考察はこの辺にして、本題に戻ろう。

 私が台湾ライター批判に否定的な理由の一つは、「偏りが出ているのはライターだけのせいではないのではないか」と考えることにある。ニーズやメディア側の影響も大きいように思う。

 「ライター」と名乗っている人は文章によってお金をもらっているはずだから、完全に自分の意思だけで書きたいように書いているわけではないと私は理解している。ビジネスだから、書きたくても書けない内容もあることだろう。

 台湾の明るい面を紹介するのは

 「日本の読者がそれを求めているから」

 と考えるのが自然ではないか。

 日本で注目されるのは、台湾のコロナ対策だったり、オードリー・タン氏だったり、「台湾すごい!」と日本人が感じやすいネタ、あるいは「日台友好」をアピールするネタが多い。

 私はブログで、台湾の負の面として、台湾で外国人が各種の補助政策から排除されがちなことを度々取り上げているけれど、正直、こんな問題に日本在住日本人からのニーズがあるとは全く思えない。負の面といえば、格差や出稼ぎ労働者の問題などもあると思うが、いずれも一般受けするとは思わない。

 日本の読者の興味を引くネタを選び続けた結果、発信される情報が偏ってしまったとしたら、それはライターだけの問題ではない。

ただのマウント取り

 もう一つは、台湾ライター批判が「ただのマウント取りなのではないか」と見えてしまっていることだ。

 台湾ライター批判には、台湾在住のライターが「台湾人の配偶者」だとか、「学問的観点が不足している」だとかを理由に挙げている投稿も見受けられた。

 特に、「在台日本人配偶者の個人的な感想」とまで書いている人がいるのにはびっくりした。何を指して「個人的な感想」と言っているかはよくわからないが、文脈からして恐らく、SNSでのつぶやき程度のものではなくて、記事についてだと考えると、冷静で筋道立った批判などではまったくなく、単なる侮辱だとしか思えない。こういう投稿を見ると「マウント取りの以外の何物でもない」と感じてしまう。

 それに、そもそもライターは学者ではない。ライターはライター、学者は学者。役割が全く異なるのに、ライターに学術面の知識まで求めるなんて求めすぎじゃないか。私はライターさんの書く文章は「とっかかり」だと思っている。一般の人が分かりやすい、興味を持ちやすい文章。もちろん、知識がある人が書くに越したことはないけれど、「知識がある」と「分かりやすく書ける」は別物だ。

 私は台湾を知るには多面的な理解が必要だとは思うけれど、それは読み手、受け手がやることであって、多面的理解を促進する責任を、批判する側が「台湾ライター」という枠で括っている少数の書き手に押し付けるのはあまりに乱暴だ。さっきも書いたが、求め過ぎだ。

 「理解を深める」という行為は極めて能動的なものだ。普通は何かをきっかけに「これについてもっと知りたい」との思いが内から生まれ、その人が自発的に知識を広げていくことによってこそ理解は深まる。

 ライターさんが書いた分かりやすい文章は、内容に責任を持って書かれていることを大前提とした上で、誰かの興味を喚起する入口、もしくは理解を深める上での素材としての役割を果たせば十分なのではないか。

完全に客観的な記事などありえない

 そして重要な事がもう一つ。一個人が何かを伝えようとして書く文章に主観が含まれないことなどありえない。人それぞれ、立ち位置によって見える社会は違う。だから伝えたい内容や伝え方、伝えられる内容も違う。

 同じ台湾社会に住んでいても、台湾人、日本人、欧米人、東南アジア人では見えるものが違うし、同じ台湾在住日本人でも、配偶者、留学生、駐在員、現地採用者など、属性や生活環境が違えば見えるものは異なる。

 Aさんが「正しい」と思う台湾社会の姿は、Bさんにとっては「それは違う」となることだってある。というか、むしろそっちのほうが多いのではないだろうか。

 仮に、「リベラルな台湾ばかりが注目されるのが嫌だ」という人が台湾社会のドロドロした面ばかりを紹介すれば、それだって一面的だ。でも私はそれでもいいと思う。一人の人間が発信できる情報には限りがある。

 考えを整理しようと思ってブログを書いてみたけれど、結局まとまっていない気がする。

「台湾について知ってほしい」気持ちは同じ

 私はお金をもらって自分の言論を各種媒体に発表しているプロライターではない。だから、批判している人からも、批判の矛先のライターさんたちからも「部外者のお前はすっこんでろ!!」とムカつかれるかもしれないなと思いつつ、この記事を書いてみた。そもそも当事者たちに届くかどうかすら分からない。

 口を出さずにいられなかったのは、真摯に言葉を紡いでいる人たちが理不尽な批判にさらされることにもやもやが止まらなかったから。理不尽な批判はあまりに失礼ではないか。

 批判をしている人も、ライターさんも「台湾のことをもっとみんなに知ってほしい」っていう思いは同じなはずなのに、狭い世界の中でバトってもただ、その他大勢を不快な気分にさせるだけだ。全く建設的ではない。

 私の差し出がましい提案を申し上げると、「台湾ライター」さんたちが書いていない内容で、批判者側が「われこそは詳しい」と思っているテーマがあるんだったら、書いてみてはどうだろうか。言論を発表する絶好のチャンスではないか。

 もしライターさん側から「教えてほしい」と言われたなら相談料でも情報提供料でもなんでもいいからもらって、教えてあげればいい。お金も手に入って、自分より発信力がある人に、自分が伝えたい内容を書いてもらえるなんてウインウインどころか一人勝ちだ。

目には目を。ペンにはペンを

 誰かが発信する情報が気に食わないこと、反論したくなることって絶対にある。けれど、他人の発信する情報操ることはできない。

 だから誰かが言っていることに反論したいんだったら、自分で言葉にして発信するしかない。誰かに届くか届かないかは置いておいて、発信しないことには誰にも伝わらない。

 誰かを批判してマウントの取り合いをするのは不毛でしかない。マウントを取ったところで自分の心は満たされるかもしれないが、「台湾のことをもっと広く知ってほしい」という目的は達成されない。

 私は批判すること自体は悪いことではないと思う。それが誰かの気付きになることもあるから。けれど、その批判に「単なるマウント取り」や「個人に対する軽視」あるいは「憂さはらし」などが含まれているなら、それは批判ではなく「バッシング」だ。相手の心に響くことは決してない。

最後に

 私は「正しい」台湾理解とか、「本当の」台湾とは何かを知ること、伝えることなんて不可能だと思っている。

 バッシングを繰り広げている人に「不毛なバッシングは止めましょう」という私の思いが伝わるとは思っていない。そもそも不毛なバッシングだと認識していない可能性だってある。

 この長文をここまで読んでくれた方々はきっと、「バッシングって不快だな」とか「他人が考えていることを知りたいな」とか思ってくれる優しくて寛容な心の持ち主だと思うので、その方たちに何かを感じ取っていただければ嬉しい。

 自分ではなかなか気付かないことでもあると思うけれど、批判とバッシングを履き違えないように気を付けていかなきゃなと思う。

まとめ

 バッシングしても無意味。伝えたいことがあるなら自分の言葉で発信したほうが良くない?真摯に情報発信している人には、リスペクトを!

※アイキャッチ画像は_MarionによるPixabayからの画像です

2 COMMENTS

kuroqie

ブログ記事を読んでいただいてありがとうございます。

一つ申し上げておきたいのは「在台日本人配偶者の感想」の部分は、康凱爾様のツイートを見たのは確かですが、私が念頭に置いていたのは別の方です。その方も同じ文言を使った発言をされ、最近もまた同様の発言をされていたのを目にし、気に掛かったのでこの記事を書きました。
なぜその言葉を用いたかというと、ライターさんご自身がその言葉を使われたことを悲しんでいる投稿をされているのを見かけたので、より伝わりやすいかと感じたからです。

私の書き方が未熟なばかりに、不快な思いをさせてしまい、大変申しわけございません。

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