※この記事は台湾ネタは全く入っていません。
先週末、とても悲しい出来事がありました。
みなさんと同様、私もショックを受けた一人です。
さて、この出来事を巡り、数多の報道が飛び交っています。中には、故人の過去のインタビュー記事や写真などを掲載しているウェブ媒体もありました。私はこれになんとも言えない思いを感じました。
故人を消費しているだけではないか―と。
報道業界の片隅に身を置く立場として、私はメディア側の立場も十分に理解しています。多くのメディアにとって報道は商業活動でもあります。この話題に対する世間の関心の大きさが明白な以上、言い換えてみれば、関連情報へのニーズが高まっている以上、メディアが関連情報を提供することは、ビジネスとしては至極まっとうなものだと考えます。それでもやはり、もやもやした気持ちになってしまいます。
複数のウェブメディアの発信を見ていると、違和感を感じるものもあれば、そうではないものもあります。この違いは何か考えてみたところ、発信者の「温度感」なのではないかと感じました。
フリーでなく、企業に属しているメディア関係者は、自分が扱いたくない話題を扱わざるを得ない場合もあります。ただそれでも、情報を調理するのは生身の人間です。単なる「アクセス稼ぎ」として情報を発信しているのか、それとも本当に「追悼の意を込めて」発信しているのか、受け手にはなんとなく伝わってきます。私が違和感を感じた報道は前者なのではないかと思いました。
同じ「訃報」のニュースでも、どうやって亡くなったかによって、その後の報道の仕方、受けての捉え方は違ってきます。今回のような出来事の報道はすごくセンシティブで、難しいものです。だからこそ、発信する側のモラル意識や温度感が重要なのではないかと感じました。
故人を消費したくないと思いつつも、私のこの記事も結局は消費していることになるのではないかと懸念を抱きながら書いています。
でも、今後も情報を発信していく上で、今回感じた思いを忘れないようにしたい。そのために記録として書き留めておこうと考え、投稿することにしました。
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